皆さんこんにちは、株式会社森田工務店の森田晃司です。
写真は、お堂の模型、木製です。造られたのは、おそらく昭和30年代か40年代の初頭、製作者は『ツナやん』と言われ、森田工務店創業当時の大工です。
ツナやんは本名を黒本綱蔵といって、元々、森田工務店の前身である「大清」の7代目清太郎(創業者の父)親方の下で働く大工でした。大清8代目が26歳の若さで亡くなり、大清が解散すると、しばらく他所で仕事をしていたようですが、大正13(1924)年に森田仙吉が「大清森田工務店」として家業を再興すると、ツナやんは戻ってきて、仙吉親方のもとで大工の腕を振るいます。20歳の新米親方の仙吉にとって、ツナやんの存在は非常に心強い存在であったことが容易に想像できます。
そんなツナやんも、いつしか歳をとり大工を引退したのですが、あるときフラッと仙吉のもとを訪れます。仙吉も会長職としてすでに第一線から退いていましたが、来訪をたいへん喜んで昔話に花を咲かせたといいます。
この頃にツナやんが、材木の端材(はざい=余った材料)を使って冒頭のお堂をいくつか拵(こしら)えたと言われており、写真はそのうちのひとつです。他にもっと立派なお堂の模型をツナやんは作ったらしいのですが、どこにいったんでしょうね?現在捜索中です。もし発見したら、見比べてみたいと思います。
晩年のツナやんには身寄りがなかったようで、そのことを不憫に思った仙吉は、ツナやんが亡くなったとき、森田家先祖代々の墓にいっしょに埋葬しました。同じような理由で、森田家のお墓には、ツナやんを含め、森田家以外の方で、工務店のために尽くしてくれた方が何人か眠っています。家族にはたいへん厳格な為人(ひととなり)が伝わっている創業者ですが、一方では人を大事にし、情義に厚い一面を持っていたことが伝わってきます。
まあ現代の感覚からすると、ちょっと違和感を覚えなくもないのですが、今の「経営者と労働者」の関係ではなく、昔の「御恩と奉公」、親分子分というとなんだか誤解されそうですが、親方と職人という、昔ながらの主従関係の名残を感じますね。ではまた。