森田に歴史あり
当社創業家は、ここ大阪府豊中市勝部、当時の摂津国豊能郡勝部村にて、代々の家業として、建築に携わってきました。
屋号『大清』
森田工務店の前身である大清は、森田清治郎を元祖とし、当家の代々の大工棟梁は清治郎を名乗ったため、「大清(だいせい・だいせ)」という屋号で親しまれてきました。
大清の初代・森田清治郎は、慶安5(1652)年の原田神社の再建に携わった大工棟梁家・森田治右衛門の傍系(実弟)で、江戸時代中期の元禄年間(西暦1688~1704年)、分家独立したと伝わっています。
江戸時代の勝部村の大半は農業を生業とする人々でしたが、勝部大工の多くは早くから森田姓を名乗っていたようで、近隣の寺社の古い棟札からは、勝部村大工棟梁・森田武右衛門、森田治右衛門などの名が見られます。
徳川時代、近畿圏の建築工事を取り仕切っていたのは、徳川家康配下の中井大和守に始まる中井家、のちに組織化した【中井役所】で、勝部村の大工たちもグループ編成され、摂津農村大工10組のひとつ「勝部組」として、京都御所や近隣の社寺の建設、修理などに携わっていました。
先に触れた遠祖・森田治右衛門は、この勝部組の組頭を代々務めており、江戸期の関係史料(上田家文書など)に、その名が散見されます。
明治期の仕事
明治時代になり、文明開化が進む中で、明治45年、箕面有馬電気鉄道(現在の阪急宝塚線)岡町駅の西側は【岡町住宅】として開発され、池田市【室町住宅】(明治43年)に次ぐ古さですが、当時、大清が建築を請け負った住宅のひとつが現在、【登録文化財 西山家住宅】の母屋として現存しています。
大清の解散
地元で堅実に商売を続けてきた大清ですが、大正年間、棟梁・清太郎が死に、その跡を継いだ清三郎も早逝。遺児の清治は生後半年の赤ん坊で、清三郎の弟・仙吉はまだ15歳の少年で、一家を率いて稼業を続けてゆくには若すぎます。棟梁を失っては建築の仕事を請け負うことはできず、大清は解散せざるを得ませんでした。
再興・創業
家財道具は競売で人手に渡り、職人も他へ去ってゆくさまを目の当たりにした清三郎の弟・仙吉少年は、再興のゆるぎない志とともに、大阪(一説に尼崎)へ大工修業に出ます。
数年を経て、修業から戻ってきた20歳の仙吉は、大正13年3月、勝部村の隣の原田村(現在の豊中市原田元町)で「大清 森田工務店」として、家業を再興します。大清の再興には、ありがたいことに、地縁・血縁など色々な方面からの支援があったといいます。
現在、当社では、この大正13(1924)年を、創業年と定めています。
太平洋戦争、その後
戦時中、伊丹飛行場、現在の大阪国際空港の南側に、米軍の空襲から本土を防衛するための備えとして、豊中高射砲陣地(旧陸軍高射122師団第7中隊)が作られましたが、戦後、砲台跡、兵舎等を残したまま、民間への払い下げとなり、縁あって森田家が同地を取得し、ここに森田工務店の事務所を移転しました。
「食べるもんがあったら、人は集まってくるやろう」
当時の敷地では、長屋を建設し、兵舎跡で鶏を飼ったり、製粉工場を営みパンを製造するなど、戦後生活困窮者の食・住と雇用を生み出すなど、仙吉の意向により、本業以外でも微力ながら社会奉仕を行っていました。この頃の日本はみなその日を生きてゆくのに必死でしたので、建築の仕事はほとんどなかったようです。
戦後復興の波
敗戦後の日本の復興のためには、住宅の建築が欠かせません。昭和27年より、森田工務店は殖産住宅の事業に協力するようになります。この頃、仙吉は40歳代後半で隠居、家督を長男・照雄に譲ります。
昭和39年、東京オリンピック(1964)が開かれた年の3月、大清森田工務店は、企業・株式会社森田工務店となり、初めて社屋を建設します。創業者森田仙吉は会長職、長男・照雄が初代社長となります。
ご縁あって、地元の阪急グループ、三菱グループ、クラレ等各社との輝かしいパートナーシップの経験をさせて頂き、昭和60年頃からは住友林業ホーム(現在の住友林業株式会社様)とともに平成時代を駆け抜け、さらに令和の今日まで、【住友林業の家】事業に協力させて頂いております。
創業者・森田仙吉は、昭和55(1980)年、この世を去りますが、私たちに多くの訓戒を遺してくれました。
私たちは創業者の遺訓を胸に、商売を大きくせず、大きな利益より小さな信義を大事にし、誠実に、堅実に、着実にあゆみ続けてゆきます。
さいごに
戦後日本の復興とさらなる発展には、物流・交通網の整備が不可欠でありました。当時歌島線と呼ばれた道路の拡充整備をするにあたり、株式会社森田工務店を隠居し、会長となっていた仙吉は、敷地の大半を譲渡しました。現在の社屋の前を通る府道10号線及び阪神高速空港池田線です。
(写真:阪神高速建設中) 写真提供/大阪・辻村様
また、増加の一途をたどる府道10号線の交通の中、勝部地区の児童たちが安全に道路を横断し登下校できるようにと、陸橋整備のための用地を提供しました。
このような経緯で完成した原田元町歩道橋は、現在も通学路として使われ、登下校の子どもたちの元気な声をきくことができます。