皆さんこんにちは、株式会社森田工務店の森田晃司です。
前項(森田工務店前史~原田神社との関係①)では私たちの遠い祖先である森田治右衛門が、慶安5(1652)年の原田神社再建に関わる大工と紹介しました。
今回は、治右衛門家から分家したと伝わる清治郎のことを記します。
豊中市史に掲載される史料(野口家文書)によれば、原田神社の再建からちょうど140年後の寛政4(1792)年、周辺の氏子からの寄進があつまり、原田神社は修復工事を進めることになりました。
このときの工事を請け負ったのは、大坂の大工年寄(今風にいえば大阪府建築組合の役員)宇田屋幸助ですが、実際に施工するのは、史料の内容から判断すると、勝部村大工・清二郎(清治郎)だったようです。宇田屋がプロデューサー、清治郎が現場のディレクターといったところでしょうか。
江戸時代当時、お寺や神社の建築・修理は、幕府の許可を受けなければならず、元請業者の宇田屋がこれらの手続きを行ない、その経過進捗を書面でやりとりしていたことがうかがえます。