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豊中市勝部とは(2)

  • 2022年1月11日

皆さんこんにちは、株式会社森田工務店の森田晃司です。

 当社は、昭和21(1946)年より、豊中市勝部の現在に事務所を構えて営業させていただいておりますが、今回は、前回のブログに続いて「豊中市勝部とは(2)」と題して、昔の豊中市勝部がどんなところだったかを紹介します。

 このあたりはずっと昔から「勝部(かつべ、史料によっては「かちべ」とも)」という名で呼ばれてきたようです。明治22(1889)年までは摂津国豊嶋(てしま)郡勝部村、その後豊能(とよの)郡南豊嶋村大字勝部、現在の豊中市に編入されたのは昭和22(1947)年です。

 空港も、阪神高速道路池田線もない頃の勝部は、西は遠くに岩屋(兵庫県伊丹市南東部の集落)を望み、東は松林の坂道を抜けて岡町・原田神社(現在の阪急宝塚線岡町駅)、あとは見渡す限りののどかな田園地帯でした。

 現在の勝部の中を通りますと、少なくはなりましたが、まだ田畑や水路があり、昔ながらの農業を営んでいる方もおられます。

 昭和の頃には、ジャム工場や牧場もありました。豊中市の学校給食のパンは、令和3年現在もこのあたりに会社・工場があります。豊中市の小学校に通われていた方なら、社会見学などで来られたことがあるかもしれませんね。

 その他は、はるか昔、弥生時代の遺跡として、古代史学や考古学の研究者の間ではまあまあ有名な、「勝部遺跡」があります。知る人ぞ知る、知らん人は全く知らんでしょう。

 余談になりますが、私、勝部に多少なりとも縁のある者だと思っていたのに、30歳を過ぎても「勝部遺跡」のことを知りませんでした。私は豊中市の公立小学校でしたが、社会見学に連れて頂いたのは近くの「田能遺跡」で、「勝部遺跡」のことを教わった記憶がありません。もっとも、私が出来の悪い生徒で、授業をしっかり聞いていなかっただけかもしれませんが。

 戦国時代にはこのあたりに「勝部城」があったということです。滋賀県守山市の「勝部城」ではありません。

すぐ近くには「原田城」跡がありますが、「勝部城」は現存せず、詳しくわかっていません。このあたりは山がないため、もしも勝部城が戦国時代の平城だったとしたら、守りには弱かったかもしれません。このあたりはいつかあらためて調べたいと思っています。

 江戸時代以降昭和中期までの勝部の住民は農家の方が大半を占める一方、私たちの先祖のような農村大工組も複数ありました。村には森田姓が多く、史料に目を通していますと、屋号で呼び合う習慣があったようです。

勝部出身の森田さんのうちの複数が、現在もこの地域で建設業を営んでいるのも、興味深いところです。大昔は親戚筋だったのでしょう…という話を別のブログで紹介していますので、興味のある方は、よかったらそちらもお読みください。

 

さて、そのような農村地帯に大阪(伊丹)空港ができたのは、昭和14(1939)年、当時は大阪第二飛行場として運用を開始しました。

昭和20年代以前のお生まれの方で、いまだに「空港」ではなく「飛行場」と呼ぶ方もあります。何もなかった田園に、ある時から飛行機が離発着するようになる。「飛行場」のインパクトは大きかったのではないでしょうか。

太平洋戦争の昭和17(1942)年頃、飛行場の南側、まさしく現在私たち株式会社森田工務店が事務所を構えている現在の勝部1丁目(昔は勝部と原田の境目あたりで、原田北町と区分されていました)、この場所はもともと農地だったようですが、旧日本陸軍の高射砲陣地が建設されたのです。

高射砲とは、すみません私は軍事には詳しくないのですが、細長い大砲と申しましょうか、地上から空中の飛行機などを射撃するための砲術兵器です。旧日本陸軍の軍事拠点となり、敵機からは大きな攻撃目標として狙われやすかったであろう飛行場やその周辺地域を、爆撃から防衛するためだと思われます。

 飛行場の建設をきっかけに、豊中市勝部は、どんどん変わっていったといえるのではないでしょうか。ではまた。